2007年 03月 22日
第9話 入院体験 |
人間誰しも元気で過ごしたい、健康でありたい、病院とは無縁でありたいと願っている。だが、時には体調を崩して心ならずとも闘病生活を強いられることがある。
幸い私は幼少のころから特に大きな病気にかかることなく健康そのものの生活を送ってきた。これも両親から授かった頑健な肉体のおかげである。
しかし、過去1度だけ1週間ほど入院する羽目になったことがある。病名は麻疹(はしか)。高齢者や特に虚弱体質でない限り生命に危険のない流行病であるが、何の前兆もなく突然発病する上に、成人になってから感染するとなまじ抵抗力と体力があるためか重症化することが多い。
私の場合、それは5年ほど前の4月のある日曜日に発病した。厳密に言うと伝染病だから「感染」した。いつもの通り名古屋へ出て中国語スクールへ行く途中、喫茶店で食事していたら、どうも体がだるくて仕方がない。紅茶の味がとてつもなくまずく感じる。明らかに普通ではないのでスクールキャンセルして帰宅した。とにかくだるいのですぐに就寝する。翌日月曜日、まだだるいので検温するとなんと39度!体温計が壊れたのではと錯覚するほどのかつてない高熱。とりあえず会社には病欠の連絡入れ、近所の病院へ向かう。
まだ入社3年くらいだったのでクルマすらなく、高熱を押して自転車で向かう。待合室で座っているだけで目が回る。
診察室に入り、医師が胸に聴診器を当てようとした時、すぐに「あ、発疹出てるね、麻疹だね」とコメント。麻疹はウイルスによるものなのでカゼと同じく対症療法しかない。高熱が出るのは体の抵抗力が強いためで、脳症を発しないように気をつけながら水分補給し休養するしかないとのこと。とはいえ、一人暮らしなので、無理に頼み込んで入院させてもらうことにした。
入院といっても伝染病なので自動的に隔離され個室入りである。高齢の入院患者が感染したらそれこそ命取りになりかねないので、トイレもポータブルを個室内に設置。といっても口内にもできものが出て痛くて食事どころか水も飲めない。
看護師が「着替えとか、生活用品、誰か家にとりに行ってもらって」というが、会社の同僚に頼むわけにもいかないので実家に緊急連絡して両親に飛んできてもらうことにした。
さあそれからが七転八倒の連続。40度前後でまったく熱が下がらない。意識が朦朧として昼なのか夜なのかわからない。折悪しくも市会議員選挙前で、日中宣伝カーが走り回りうるさくて仕方が無い。このときばかりは議会制民主主義を心底憎悪した・・・。
夜になってから両親が到着する。信州から高速でかけつけてくれた。用心のために二人ともマスクをしている。着替えもなんとか手に入った。父は仕事があるので先に帰り、母がアパートに寝泊りしながら看護してくれることになった。
食事ができないので栄養補給は点滴。両腕にそれぞれ薬と栄養補給の点滴を打ち続ける。流動食のみ摂ることになったがふとパッケージを見るとなんと賞味期限が過ぎている。
気分が悪いのが災いして「この病院はどういう管理してるのか!」と看護師を怒鳴りつける。母が「病人だから」ととりなしてくれたが、このときは本当に腹が立った。
意識が朦朧として昼なのか夜なのかわからず。一日三回の薬も服用したか、していないかわからない。看護師に朝昼晩の仕切りつき容器を作ってもらった。
食事できないのでトイレも必要が無い。高熱でうなされながらも、ふと戦時中の南方戦線の兵士のことを思い出してしまった。マラリアで周期的に襲ってくる高熱に悩まされながら重い荷物と銃を担いでジャングルの中を逃げ回るなんて、本当にどれほど大変だったろうと。それと比べたら個室で寝ていられる自分は恵まれている。
とはいえ、医師も手の施しようが無い。一応、朝定期的に診察に来てくれるが、経過を見守るだけである。救いは医師がまだ若く、非常に丁寧な診察で、おまけに信州大学医学部出身ということで母も親近感を持てたということ。
高熱も3日から4日を過ぎると峠を越したようで少しずつ下がってきた。できものもかさぶた状に変化する。若い女性看護師が優しい言葉?をかけてくれたような気がするが、人間こういう状態になると色気も何もあったものではない。うっとうしくてたまらない。
ようやく平熱近くに下がり、食事もすこしずつ摂れるようになった。突然の入院で会社との連絡も満足に取れていなかったものの課長が見舞いに来てくれる。しかし伝染病ということでついたて越しの会話。
起き上がって病院食を摂るようになったものの、何かが変だ。味覚である。はじめは病院食だから変な味だと思っていた。ところがお茶を飲むとまったく苦くない。しょっぱいのである。塩水を飲んでいるような感じ。医師によると長時間点滴で水分補給したので体液中の成分バランス、とくにミネラル分が失われ味覚がおかしくなっているとのこと。そういえば、最後まで点滴をつづけていた左手は、点滴をはずしても何かにひっぱられているような感じがぬけず、歩行するときも左によろめいてしまう。
たった1週間の入院でもこれだけ体質が変化し、体力が衰えるのだから、長期療養の患者はさぞや大変な苦労があるに違いない。
1週間後、退院して自宅でシャワーを浴びたら垢がぼろぼろと皮膚の皮がめくれるように出てきた。いすに座っても左にひっぱられるような感覚。味覚もしばらくはもどらない。
幸いにも両親が健在ですぐ駆けつけてくれたからよかったものの、もし一人きりで、しかも入院を拒絶されていたら、どうなっていたかわからない。つくづく両親のありがたさ、受け入れてくれた病院に感謝したい。基本的には幼少のときに誰もがすませておくべき通過儀礼のような病気なので、運が悪かったとしかいいようがない。
とはいえ、入院体験はそれまで意識していなかった健康管理の重要性を再認識させると同時に、いわゆる医療問題にも開眼させられるきっかけとなった。たとえば、医療費の問題である。今回は健康保険と生命保険双方の保険金ですべての診察代、入院費をまかなうことができた。実質、自己負担はほとんどゼロ。しかし、長期入院になれば状況は変化するであろうし、日本だから安心していられる。聞くところによればアメリカなどでは保険制度が完全に市場原理に任されており、貧富の差が医療の世界にも大きく影響しているという。また、金銭面でなく、看護する人間の問題。もし親族が近くにいなければ、単身者の入院は非常に面倒なものとなる上、病院は医療行為専門で、入院生活そのもののバックアップはしてくれない。
以後、しばらく医療問題について考えてみることにしたい。
幸い私は幼少のころから特に大きな病気にかかることなく健康そのものの生活を送ってきた。これも両親から授かった頑健な肉体のおかげである。
しかし、過去1度だけ1週間ほど入院する羽目になったことがある。病名は麻疹(はしか)。高齢者や特に虚弱体質でない限り生命に危険のない流行病であるが、何の前兆もなく突然発病する上に、成人になってから感染するとなまじ抵抗力と体力があるためか重症化することが多い。
私の場合、それは5年ほど前の4月のある日曜日に発病した。厳密に言うと伝染病だから「感染」した。いつもの通り名古屋へ出て中国語スクールへ行く途中、喫茶店で食事していたら、どうも体がだるくて仕方がない。紅茶の味がとてつもなくまずく感じる。明らかに普通ではないのでスクールキャンセルして帰宅した。とにかくだるいのですぐに就寝する。翌日月曜日、まだだるいので検温するとなんと39度!体温計が壊れたのではと錯覚するほどのかつてない高熱。とりあえず会社には病欠の連絡入れ、近所の病院へ向かう。
まだ入社3年くらいだったのでクルマすらなく、高熱を押して自転車で向かう。待合室で座っているだけで目が回る。
診察室に入り、医師が胸に聴診器を当てようとした時、すぐに「あ、発疹出てるね、麻疹だね」とコメント。麻疹はウイルスによるものなのでカゼと同じく対症療法しかない。高熱が出るのは体の抵抗力が強いためで、脳症を発しないように気をつけながら水分補給し休養するしかないとのこと。とはいえ、一人暮らしなので、無理に頼み込んで入院させてもらうことにした。
入院といっても伝染病なので自動的に隔離され個室入りである。高齢の入院患者が感染したらそれこそ命取りになりかねないので、トイレもポータブルを個室内に設置。といっても口内にもできものが出て痛くて食事どころか水も飲めない。
看護師が「着替えとか、生活用品、誰か家にとりに行ってもらって」というが、会社の同僚に頼むわけにもいかないので実家に緊急連絡して両親に飛んできてもらうことにした。
さあそれからが七転八倒の連続。40度前後でまったく熱が下がらない。意識が朦朧として昼なのか夜なのかわからない。折悪しくも市会議員選挙前で、日中宣伝カーが走り回りうるさくて仕方が無い。このときばかりは議会制民主主義を心底憎悪した・・・。
夜になってから両親が到着する。信州から高速でかけつけてくれた。用心のために二人ともマスクをしている。着替えもなんとか手に入った。父は仕事があるので先に帰り、母がアパートに寝泊りしながら看護してくれることになった。
食事ができないので栄養補給は点滴。両腕にそれぞれ薬と栄養補給の点滴を打ち続ける。流動食のみ摂ることになったがふとパッケージを見るとなんと賞味期限が過ぎている。
気分が悪いのが災いして「この病院はどういう管理してるのか!」と看護師を怒鳴りつける。母が「病人だから」ととりなしてくれたが、このときは本当に腹が立った。
意識が朦朧として昼なのか夜なのかわからず。一日三回の薬も服用したか、していないかわからない。看護師に朝昼晩の仕切りつき容器を作ってもらった。
食事できないのでトイレも必要が無い。高熱でうなされながらも、ふと戦時中の南方戦線の兵士のことを思い出してしまった。マラリアで周期的に襲ってくる高熱に悩まされながら重い荷物と銃を担いでジャングルの中を逃げ回るなんて、本当にどれほど大変だったろうと。それと比べたら個室で寝ていられる自分は恵まれている。
とはいえ、医師も手の施しようが無い。一応、朝定期的に診察に来てくれるが、経過を見守るだけである。救いは医師がまだ若く、非常に丁寧な診察で、おまけに信州大学医学部出身ということで母も親近感を持てたということ。
高熱も3日から4日を過ぎると峠を越したようで少しずつ下がってきた。できものもかさぶた状に変化する。若い女性看護師が優しい言葉?をかけてくれたような気がするが、人間こういう状態になると色気も何もあったものではない。うっとうしくてたまらない。
ようやく平熱近くに下がり、食事もすこしずつ摂れるようになった。突然の入院で会社との連絡も満足に取れていなかったものの課長が見舞いに来てくれる。しかし伝染病ということでついたて越しの会話。
起き上がって病院食を摂るようになったものの、何かが変だ。味覚である。はじめは病院食だから変な味だと思っていた。ところがお茶を飲むとまったく苦くない。しょっぱいのである。塩水を飲んでいるような感じ。医師によると長時間点滴で水分補給したので体液中の成分バランス、とくにミネラル分が失われ味覚がおかしくなっているとのこと。そういえば、最後まで点滴をつづけていた左手は、点滴をはずしても何かにひっぱられているような感じがぬけず、歩行するときも左によろめいてしまう。
たった1週間の入院でもこれだけ体質が変化し、体力が衰えるのだから、長期療養の患者はさぞや大変な苦労があるに違いない。
1週間後、退院して自宅でシャワーを浴びたら垢がぼろぼろと皮膚の皮がめくれるように出てきた。いすに座っても左にひっぱられるような感覚。味覚もしばらくはもどらない。
幸いにも両親が健在ですぐ駆けつけてくれたからよかったものの、もし一人きりで、しかも入院を拒絶されていたら、どうなっていたかわからない。つくづく両親のありがたさ、受け入れてくれた病院に感謝したい。基本的には幼少のときに誰もがすませておくべき通過儀礼のような病気なので、運が悪かったとしかいいようがない。
とはいえ、入院体験はそれまで意識していなかった健康管理の重要性を再認識させると同時に、いわゆる医療問題にも開眼させられるきっかけとなった。たとえば、医療費の問題である。今回は健康保険と生命保険双方の保険金ですべての診察代、入院費をまかなうことができた。実質、自己負担はほとんどゼロ。しかし、長期入院になれば状況は変化するであろうし、日本だから安心していられる。聞くところによればアメリカなどでは保険制度が完全に市場原理に任されており、貧富の差が医療の世界にも大きく影響しているという。また、金銭面でなく、看護する人間の問題。もし親族が近くにいなければ、単身者の入院は非常に面倒なものとなる上、病院は医療行為専門で、入院生活そのもののバックアップはしてくれない。
以後、しばらく医療問題について考えてみることにしたい。
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by china_project21
| 2007-03-22 08:17
| 大庭乱の気ままに見聞録